すべての言葉は枯葉一枚の意味も持たないかのようであった

久しぶりのブログです。前回地震の話をした直後に大震災。続く言葉が見つからず過ごしておりました。
今日は 2011年4月3日の朝日新聞の天声人語をそのまま転記させていただきます。

  日常というものがかくも微塵(みじん)に破壊された光景
  を見たことはないと、遅ればせながら被災地に入って思
  った。
  材木、瓦、ミシン、仏壇、めがね、電動歯ブラシ、家計
  簿、かつら、割れた便器。
  ありとあらゆるものがねじれ、ゆがみ、ひん曲がって、街
  が集落が消えていた

  阪神大震災のときは翌日神戸に入った。
  あれほど壊れた街を見ることはもうないと思っていた。
  しかし――。
  「すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった」。
  アウシュビッツを訪ねた開高健の「うめき」が脳裏をよぎっていった

  当事者と非当事者との間にある越えがたい深淵(しんえん)。
  そこに懸ける言葉を持ちうるのか。
  「(3・11を)ただの悲劇や感動話や健気(けなげ)な物語に貶(おとし)めてはいけない」。
  作家のあさのあつこさんが小紙に寄せた文の一節を、きびしく反芻(はんすう)した

  たぶん私たちも、言葉が枯れ葉一枚の意味も持たない壊滅状態から、ともに歩み出すしかないのだ。
  深淵を飛び越えたつもりの饒舌(じょうぜつ)は、言葉の瓦礫(がれき)にすぎないとあらためて思う

  取材した気仙沼から石巻まで、大小の良港のある陸前は今が早春。
  『ふなばらを まつ青にぬりたてられて うれしさうな漁船だ ――鮪(まぐろ)をとりにでかけるところか
  ああ、春だの』 (山村暮鳥)。
  こうした平穏は今や遥(はる)かに遠い

  女川の町は文字どおり無くなっていた。
  女性がひとり、這(は)って形見を探していた。
  「泣いても泣いても泣けてきて」。
  国をあげての長い試練となる。
  懸ける言葉を絞り出したい。

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