私達、住宅建築の専門家として考えるべき
住宅から考える 環境への配慮 とは
何故家が必要なのかという 最も根幹的な性能に付いて論議する中で産まれてくるものです。
何故家が必要なのか?
その理由は 安定して休息をとる = 熟睡を得る空間 を確保するためという
とっても動物的な事であると言えます。
安眠を得るために、考えられる いろんな外厚に耐える空間であることが必要です。
地下鉄のダンボールで出来た家も 『個』 の最小単位として住宅と言えるかもしれませんが、
外からの攻撃や台風など自然に対する対処は無に等しく
何より、人間らしく文化的であるとは言い難いです。
住宅は先ず、構造。
「基本的な生活が安心して過ごせ、地震や台風にも耐えられる。」
それを求めることは人間が動物である故の自然の要求であり、ごく自然なことだと言えます。
テレンスコンラン卿は言います。
『先ず構造の安定が得られなければ生活を楽しむゆとりは生まれないだろう』
構造の安定の上に成り立つ人間らしい欲求 = より快適であろうとする事こそが人間なのです。
私達が考えるべきは 人間のエゴを押し通すと自然への環境負荷が必ず生ずるということなんです。
そんな人間の功罪を認めつつも 負荷を最低限に抑えたいという矛盾。
住宅建築とは そのジレンマを抱えながら行われる行為だからこそ、
排他的な専門職なのだろうと思うのです。
自生する材料を使う方が環境負荷が少ない。
だから木造で丈夫な家を造る。想像しやすいですよね。
神様も許してくれると思います。
人として より快適に過ごすために何故 軒を出すのか?何故土間があるのか?何故漆喰だったのか?
暖かい家。涼しい家。丈夫な家。燃えない工夫。
昔から受け継がれた日本の家の工夫を 現代の技術に取り入れると驚くほど快適な住宅が出来るのではないか。
材料費をかけずとも工夫次第で快適になるもがあるのではないか?
そんな論議を尽くした後、はじめて補助的に機械設備は採用されるべきだろうと思うのです。
手に入りやすい 機械技術を安易に採用しコストをかけて採算性をはかることが
建築設計の仕事ではないのです。
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